研究概要
領域の背景と目的
現在、ヒト(ホモ・サピエンス)は地球上に71億個体生活しており、家畜と合わせると陸上脊椎動物のバイオマスの9割を占めている。紀元前1万年には世界で10万人足らずであったと推定されているヒトが、これほど異常な生物学的「繁栄」に達したのはなぜか。近年、人類史を語る様々な著作が注目を集めているのは、我々はどのようにしてここに至ったのか、人間とはどのような生物なのかを知ることが、将来を考えるのに必要だという意識の高まりを示している。しかし、こうした著作はいずれも著者個人が様々な分野の研究成果を参照してまとめたものであり、逸話的、物語的な性格が強く、明確な理論化には至っていない。
大規模で複雑な社会組織、高度な科学技術、巨大な世界宗教を含む様々な宗教的信念など、他の動物行動とは大きく異なる特異的な様相が現れたのは、文明形成期である。文明形成期は、200万年にわたるヒト属の進化を通して継続した遊動的狩猟採集生活が、大きく舵を切った時期として位置付けられる。地域によって年代や具体的内容は異なるが、約1万年前以降の気候の温暖化に伴う自然環境の変化の中で、定住化、動植物のドメスティケーション、土器を含む多様な物質文化の生産が始まり、人口増加と集住、社会の複合化が進み、大規模なモニュメントの構築や儀礼・宗教の発達が起こる。北アフリカ、中東、ヨーロッパ、南アジア、東アジア、中米、南米などを中心に展開した過去の文明形成が、その後の交流や発展によって変容するとはいえ、後代の社会・文化の基礎となっている。したがって、我々がどのようにしてここに至ったのかを知るためには、文明形成がどのようにして起きたかを明らかにする必要がある。
もちろん、文明形成プロセスについてはこれまでも様々な研究の蓄積がある。しかし、こうした従来の枠組みでは、自然と文化の間の複雑な相互関係、心と物質が不可分に結び付いて展開する文明形成の実態を捉えることができないため、何が現代社会に至る爆発的かつ急速な社会的・文化的変化をもたらしたのか、という問題が十分明らかにされていない。
そこで本領域研究は、特に、生物が自ら環境を変化させ、その変化が次の世代以降の進化に影響するという「ニッチ構築」の視点を踏まえ、自然と文化、心と物質をつなぐ人間自体、人間の行為と認知に焦点を絞り、これまでにない文明形成論を展開する。具体的には、人間が物理的に生み出す物質、人間の身体、そしてそれらの相互作用の中核にあって文化を生み出す心という3つの視座を確保する。この視座の下に、文明形成期の物質文化に焦点を当て、人間に特異的な「ニッチ(生態的地位)」がいかに形成されてきたかを明らかにする統合的人類史学を構築する。ヒト特有のニッチ構築という視点から文明形成期の物質資料を分析することで、文明が創出されるメカニズムを明らかにできるのではないかということが、本研究のベースとなる着想である。
領域の内容
物質文化においていつどのような変化が起こったかについて、考古学的・歴史学的研究を主として探究する計画項目としてA01「人工的環境の構築と時空間認知の発達」、A02「心・身体・社会をつなぐアート/技術」、A03「集団の複合化と戦争」を、身体を介したヒトの認知・行動と環境とのインタラクションに関する民族誌的探究を行う研究項目としてB01「民族誌調査に基づくニッチ構築メカニズムの解明」、脳神経科学的・心理学的研究を行うものとしてB02「認知科学・脳神経科学による認知的ニッチ構築メカニズムの解明」を設置する。その過程で身体において何が起きたかを探究する研究項目としてB03「集団の拡散と文明形成に伴う遺伝的多様性と身体的変化の解明」を設置する。さらに、各計画研究の成果を蓄積し、相互に利用可能なかたちのデータベースを構築し、計画研究間のフィードバックを促進する機能を持つとともに、データの数量化を行い、モデルの検証・深化を行う部門として、計画研究C01「三次元データベースと数理解析・モデル構築による分野統合的研究の促進」を設置する。
領域の意義・期待される成果
本領域の研究対象地域は、いずれもアジア地域まで拡散したサピエンスが、さらに進出を果たした地域であるという共通性を持ちながら、進出の時期と状況、気候や地理的環境などが大きく異なっている。
弧状を呈して大陸に近接する日本列島へのサピエンスの移住は、約4万年前から複数のルートで断続的にあったと推定されている。弥生時代開始期や古墳時代にも断続的にユーラシア大陸からの移住があり、国家形成プロセスにおいても大陸との関係が重要な要因となっている。中南米・オセアニアに比べると、ユーラシア大陸との関係が密接であるが、それでもモニュメントやアートなど様々な側面で朝鮮半島や中国と異なる独自性がみられる。
アメリカ大陸への人類の移動は、約1万5千年前の最終氷期にベーリング地峡を通ってアラスカに渡り、氷期が終わる1万3千年ほど前に氷床が後退してできた「無氷回廊」を南下して、約千年で南米大陸の南端にまで到達したと考えられているが、さらに早い時期に海路で移住した集団がいた可能性も指摘されている。アメリカ大陸は、その後の温暖化で生じたベーリング海峡により旧大陸と遮断され、結果として1万数千年前の狩猟採集民であった小グループが、旧大陸からの影響を受けず独自の力で農耕牧畜を始め階級社会を形成し、再び旧大陸と接触した15世紀にはアステカ王国やインカ帝国まで創出しており、文明形成の動態を探る最適の「実験場」を提供している。さらに中米と南米における文明形成はほぼ独立して起こっており、独自の環境構築過程として検討することができる。
オーストラリアへは約5万年前に遡るが、本研究領域が主たる対象とするのは紀元前1500年頃から始まるオーストロネシア語族の拡散である。肉眼で確認できない遠方の島への航海は高度な認知的環境構築が必要であり、資源の限られた島への適応も含め、注目すべき点が多い。また、言語データから集団の分岐年代を推定し、社会制度の変化を復元するなどの研究が近年盛んに行われている地域でもあり、国際的な議論を展開できると期待される。
また、これらの地域の諸文化は、ユーラシアで育まれた西欧文明によって、暴力的・経済的・文化的に破壊ないし変容された歴史を持つ。その結果、現代社会においては主流とならなかった環境構築の在り方を拾い上げ、現代文明の基盤となっている大陸的(西洋的)認知構造の限界を明らかにし、オルタナティブな在り方を見付けることも期待される。